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髪結いの亭主?

発車のベルが鳴り続けている。階段を息せき切って昇り電車に飛び乗った瞬間にドアが閉まった。いつもなら大阪と郷里の往復は新幹線を利用したが今回は後にも先にもただ一回だけオヤジが家族旅行と称して連れて行ってくれたお伊勢さんの五十鈴川を何故か再訪したかった。何も考えることなくあの清流を眺めていたので電車の駅に行くのが大幅に遅れてしまった。大阪行きの近鉄特急である。例の建設現場で消費癖がついていたのも手伝って、若僧の癖に今で言うグリーン車の指定席に乗ることにした。

目指す車両は3台先であった。切符と座席番号を見比べ車内を歩いているうちに呼吸も正常に戻りつつあった。しかしそれから数分後に心臓の鼓動が激しく打ち始めるのをその時は知る由も無かった。グリーン車の中央辺りが私の指定席である。半分位の席が埋まっていたが、静かな車内だった。その中でとても清楚な感じがする女性の姿が私の眼に飛び込んできた。一瞬若尾文子を彷彿させるようないい女だなと思った。同時にかって学生時代に見た谷崎潤一郎原作の映画「刺青」の中で全裸の後ろ姿ではあったが若尾文子の腰から尻にかけての妖しいまでも美しい艶姿の邪念が走った。

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彼女の隣りの席が私のものであることを確認した途端、心臓がドキドキし始めた。生まれてこの方、こんな機会に遭遇したことはなかった。(ちなみに会社時代ももう何百回、何千回と乗った飛行機や電車やバスでの経験。常に隣りに座ったのはデブのオヤジ、こましゃくれた餓鬼、喋りすぎるバアさん、時々は若い娘だけどブス。この俺、前世で何か悪いことをしてバチがあっているんかなあ、と思うことしきりであった。)席に座る前にお互い軽い会釈をしたのだが、その時の彼女の上品で愛くるしい微笑みが私を虜にした。

型通りの沈黙が暫く続いた。私は走り去る外の風景を見るような感じで彼女を盗み見した。歳の頃30前後であろうか、水玉模様のブルーのワンピースと白い肌のコントラストが眩しい、そして整った顔に理知的な美しさを感じた。すらりとした足や形の良さそうな胸の膨らみ。しかしそれ以上に興味を引かれたのは彼女がその年齢には相応しくなさそうな分厚い文芸春秋を読んでいたことである。ありきたりな女性ではないな、と思った。これから大阪までの二時間、私の単純な思考形態が如何にして彼女を攻略するかに集中したのである。

年上のこのようなタイプの女性には正攻法は通用しないと思った。自己顕示欲や自立精神が高そうなので、力強い男を演じてみても所詮あしらわれるだけ、お姉さんに憧れるヤンチャな青二才になることで母性本能をくすぐることが出来れば相手の懐に入れそうな気がした。田舎侍の自分には大した女性遍歴もなかったが、男であれ女であれ相手がどういったタイプの人間であるかの洞察力は幸い生まれながらにして持っているようである。

大阪の灯が見える頃には、話が弾んでまるで旧知の如き関係になった。ヤンチャだけど頼りない年下の男を徹底的に演ずることによって彼女の私に対する警戒心も無くなり、電車を下りた二人は駅の近くの小料理屋で出逢いの祝杯を挙げた。聞くところによると大阪城の近くで弟子を五ー六人抱えて美容院を経営しているらしい。そして手足の不自由な父親と同居しているようである。客も使用人も全て女、そんな女の世界に浸かりながら老いた父親の看護の毎日には限界がある。時に自分を解放させたくなって、気が向いたらフッと小さな一人旅に出るんです、と言った。今回はきしくも、お伊勢参りをしあの五十鈴川の清流を眺めてきたお陰で癒されました、とも言っていた。

。。。。。こんな調子で語り始めたら出逢いから別れまでの話は気が遠くなる程長くなる。だからここではその細かなプロセスやその時々のお互いの感情表現を話すつもりは毛頭なく、一気にラストステージに入っていく。

相性が良かった所為もあろうが男と女の関係になるのもそんなに時間はかからなかった。法善寺横丁、御堂筋、中ノ島公園、水の都大阪はロマンティックだった。逢瀬を重ねる度に親密度は増して行き、表向き突っ張ってお姉さん役を演じ続けているものの時に可愛いらしさも覗かせる彼女を愛しく思うようになってきた。と同時に姉さん女房も悪くないな、と考え始めた自分がそこにいた。

ある時、半分冗談半分本気で「昔から髪結いの亭主と言うけど、俺も憧れるなあ?!」と言ったら「二十歳チョッと出の若者が何を言ってるのよ!」と軽くいなされたが、まんざらでもなさそうな彼女の目つきを私は逃さなかった。でも、それ以後幾度となくそれに近い話を切り出したが、何故かその度に彼女はその話題から遠ざかろうとした。

前回の苦い体験を踏まえて、今回は親に対しては事後承諾の形を取ろうと思った。今風の“出来ちゃった婚”を試みたが意図的に行おうとすると中々思うように行かないものである。私はじれったくなってとうとう彼女と両親に同時に正式にアプローチすることにした。彼らは「何、髪結いの亭主?お前また何を馬鹿げたことを言っているんだ!」と取り付く島もなかった。今回はいよいよ駆け落ちしかないなとその時思った。

彼女には真正面から向かい合った。そして「これからは俺が養うから、髪結い業から足を洗わないか?」精一杯のプロポーズだった。彼女はかって見たことも無いようなせつなく悲しそうな表情で黙り込んでしまった。暫くしておもむろに「あなたがいつか私を苦しめる日が来ると思っていました。私は、今のままの関係でとても幸せだったのに。。。。」

収入は彼女の方が遥かに多かったから食事から旅行に至るまで何でも面倒を見てくれた。付き纏われる心配も無く男としては無責任でこんな楽な関係は無かったし遊びのつもりであれば惰性で今の関係を続けていけばいいだろう。しかし私は性格柄、そういった中途半端な関係を継続していったり相手の好意に乗じることは嫌だった。短い間の付き合いであったが、彼女は私の中に変なこだわりや古風な考え方を持っていることを気付いていた。だから、私からプロポーズの言葉を聞いた時が「二人の終わりの始まり」であることが解っていたから悲しそうな顔を見せたのである。

「私はあなたに相応しくないし、生涯家庭を持つつもりはありません。何時の日か私より遥かに若い素敵な伴侶に巡り会えることでしょう。」その夜が二人で過ごした最後のものになるなど思いもしなかった。しかしそれ以後あらゆる手段を構じ彼女と再会を果たそうとしたが駄目だった。「楽しいひと時をありがとう。さようならをもう一度なんて言わせないで」それが電話口の向こうで聞いた彼女の最後の声だった。

暫く言い知れぬ虚脱感に襲われた。前回のことといい今回のことといい、世の中も人生も自分の思うようにはならないものだということを少しずつ痛感し始めた。と同時に彼女とのあの目眩めくような甘美な時間は永遠に戻ってこないことを思うと、そこにはこれからどうしていいか解らぬ青二才の自分があった。彼女も傷ついたことだろう。しかし終章は「将来あるあなたの為を思って私が身を引いたのよ。だって何時までも何処までもあなた思いのお姉さんでいたいから」そんな彼女の呟きが聞こえてきそうだった。