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引きずるということ

愛する人との今生の別れ程辛く悲しいことはないが、無常の世界に生きる我々にそれを回避する手立ては無い。人皆一様にいつかはそれが試練に立たされ、概ねそれを乗り越えて行くものであるが何時になったらその悲しみや辛さが風化されて行くかと言うと、人夫々であって将に千差万別言ったところであろう。あるものは49日の忌明けが済むと心を切り替え立ち直って行く。しかし別のものは1年、3年、7年、いや10年、15年経っても心に安寧の日は来ず、チョッとしたきっかけで再び涙に明け暮れる日々に帰っていくと言う。所謂「引きずる」のである。

しかし一概に愛するものを失った人達の心の治癒の過程は何人も批判したり侮蔑など決して出来るものではない。それは経験したものでなければ決して理解できない心の痛みであるからである。私も女房を失うまでは、当事者の殆どは皆何故そんなに長く悲嘆にくれて引きずっていくのだろう、と不思議に思ったことがある。しかし、この世で一番大切なものを失った今、私は初めてそう言った人達の心情が痛い程理解出来たのである。

しかし、だから私も長いこと引きずっていく、と言うことではない。私はいつの間にか「モノは考えよう」 「何事も陽転思考でいい方にいい方に」 「何でも自分の都合のいいように」などと言う、出来るだけ楽をする処世方法を体得したから、自分の立ち直りは案外そんなに長くかからないのではと思っている。

また立ち直りの期間の長短によって夫婦の愛の深遠度を測ることは出来ない。確かに夫婦仲が良ければ良いほど、一般的にヒーリングには時間がかかる。そして面白いことに夫婦の間にある程度の距離感があった方が、立ち直りは早いようである。この場合は残された者は、何らかの開放感を覚え、やっと自由になれたと思えるかららしい。私の場合は所謂オシドリ夫婦であったから立ち直りに時間がかかりそうに思えたが、実際はその逆になりつつあるのは喜ぶべきか悲しむべきか?!いや、女房の遺志を解釈すれば一日も早く立ち直り前を向いて生きていくことこそ、彼女が私に望むこと、そしてその期待に答えることが自然と彼女への供養ともなると確信している。

私は昨年11月女房が他界してから今日まで多くの同じ境遇に陥った人達と悲しみとか辛さとか淋しさなどを共有してきた。このプロセスは連れ合いを亡くして恐らく人生で最も大きな試練に直面しているのは自分だけではないと言う事実を認識するのにベストの方法のように思えた。以前にも触れたが、日米双方の所謂「配偶者を亡くしたものの会」 的なものにも参加し、みんなどのようにこの試練を乗り超えていくのか、まこと興味尽きないものがあった。そしてその中から一つでも二つでもいい、自分にあった克服方法が見つかれば入会した価値があると思った。

そうこうしているうちに、女房を失ったショックから私は日に日に立ち直りつつある自分を発見した。悲しさや辛さや淋しさの度合いがドンドン少なくなって来たのである。勿論それは部分的には私の生来の物事を楽に考える性格や今までもこれからも常に前向きに生きて行こうという姿勢から来るものであろうが、それ以上に私はもっと大きなあまたの理由があると言う結論に到達した。これらの複合的な要素は私独自のものかも知れない。いやそう思う。多くの配偶者を失ったものの中で、私は恐らく最もラッキーな人間の一人だろうと思う。逆にこう言った要素が少なければ少ない程、その人は何時までも「引きずる」ことになるのである。恐らくその思いは減少はしていくも死ぬまで消え去ることは出来ないであろう。

私が再び気を取り直して案外早く前を向き始めることが出来たのは次のような理由や背景がある。

(1) 女房は心臓発作とか交通事故などで急死した訳ではない。まして乳癌で死期の近ずきはある程度予測出来たから心の準備に時間があった。リタイアしてから少なくとも5年間は四六時中一緒に過ごすことが出来た。
(2) ああしてやれば良かった、とかあそこへ連れて行ってやりたかった、とかあのことを言っておけば良かったなどと言う後悔は一切なかった。彼女の看護介護は自分の出来ることの200%以上もしてあげたし、彼女には世界の医療の最先端地アメリカでもトップクラスの治療を受けさせたからその面でも悔いはなかった。
(3) 辞世前の2ヶ月余にわたる入院生活は私達の長い結婚生活の中で至福のひと時であった。今迄二人で歩んできた夫婦生活のおさらいが出来たし、どちらかが先に逝った場合に残ったものが何をしなければならないかまでも話した。そして勿論お互いの何人たりとも侵すことが出来ない二人の強固な愛を確認し合うことが出来た。
(4) 一緒になった時に二人で描いた夢の実現が出来た。素晴らしい結婚生活、ユニークな夫婦生活、幸せな家庭生活を送ることが出来た。まさに人生を全うしたといっても過言ではない。
(5) 大切なのは如何に長く生きたかではなく、如何に充実した人生だったか、如何に人生を楽しんだかと言うこと。彼女はそれが自己実現をして逝ったから悔いはなかった。

このようなことに思いを馳せると、彼女との人生は将に素晴らしいの一語に尽きるし、えも言えぬ幸せ感で満たされる。彼女は爽やかに旅立っていったのだが、残された私には彼女を失ったことに対しての喪失感はあれど一片の悔いも未練もなかった。だから打ちひしがれ落胆する理由などさらさら無かったのである。

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