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幼少の頃の思い出

私は終戦の年、いわゆる団塊の世代のチョッと前に生まれた。正確には8月15日前だがその頃は物心もつかなかったから終戦焼け跡派とでも言った方が当たっているかも知れない。敗戦で全てを失った祖国、本当に何もない時代に生まれ育ったのである。

あれから60有余年を過ごしてきたが、私達の世代が一つだけ誇れるものがあるとすれば、それは長い日本の歴史の中で大袈裟に言えば地獄と天国、戦争と平和、貧困と贅沢、食糧難の時代と飽食の時代。。。。。これらの社会現象の両方を僅か60有余年の間に体験出来た唯一の世代だと言うことである。だから私達は物が溢れた豊かな時代に生きられる感謝の気持ちと、何時如何なる時でもいざとなれば質素倹約が出来るという気持ちを同時に有する比類なき世代であると思う。耐え難きを耐え、忍び難きを忍び。。。。我々の世代はタフである。

父母ともに愛知県の田舎の出である。父の実家はその辺りでは唯一の味噌醤油の製造販売の商家、8人兄弟の4番目で親にしてみたら目が届かぬから結構ヤンチャな子供時代を送ったらしい。母は大きな農家で生まれ5人兄弟の一番上の子供ゆえ両親に可愛がられた様である。時は戦時中ということもあって私達は母の実家にお世話になった。農家であったので米、野菜の不自由は無く、牛や豚、鶏等飼っていたのでその恩恵にも浴した。また海にも近かったから魚貝類も豊富、従ってほぼ自給自足の生活が出来たので都会の人達のひもじさに比べたら雲泥の差であった。大きな袋を担いだ買出し部隊が街からひっきりなしにやってくるのを見たのもその時代である。

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兄妹があり私はその真ん中。小学校での成績は優秀であったが子供心によくグレて母を困らせたそうである。と言うのは兄は長男だから殆どの洋服や遊び道具は新調、妹は末っ子の一人娘だからこれまた特別扱い。私はと言えば何時も兄のお古ばかり着せられたような覚えがある。後年母は我が子はみな可愛いから分け隔てなく育ててきたと言っていたが、貧乏だったから生きるのに精一杯、母も辛かったことだろう。

そんな私を見かねてある日、新品の洋服を買って来て与えてくれた。しかし、それは都会のお坊ちゃん達の着る格好よ過ぎたものだったので、私は学校で友達に冷やかされた。だから帰校するやその洋服を母に投げつけた。そしてもう二度と着ることは無いとダダをこねた。その時の悲しそうな母の顔は今でも忘れない。子供心ながら自分は真ん中の子ゆえに差別されている、今に見てろと変な反骨精神が醸成されたのもその頃であった。今思うとその < なら、やったろやないか!> という負けん気が今日までの私を支えているような気がしてならない。真ん中で次男坊だったお陰である。

村にはかっての陸軍の試砲場があったから、占領と共にアメリカ軍がやってきた。アメちゃんがチューインガムやチョコレートをくれたこと、ジープに乗せてくれたことなど皆大男だけど優しかったのを覚えている。だが、悪い印象もあった。隣町に遊郭がありたまたまその前を通ったのだが、真昼間からアメちゃんと日本人のオネエチャンが抱きついてキスしているのを見て、心臓が飛び出る程びっくりした。彼女は一瞬悲しそうな眼を私に向けたが、また兵隊さんとイチャつき始めた。子供心ながら無性に癪にさわり、< アメ公の野郎いつかは仕返しをしてやるからな > とそれは鮮烈な記憶として何時までも脳裏を離れなかった。

今思えばあの時の原体験のお陰で、< アメリカ人何するものぞ、負けてなるものか > という気概が渡米後大いに役立ったことは言うまでもない。レベルの低い話なので大きな声では言えないが、後年会社を経営し多くのアメリカ人社員を使ったり、アメリカ人を女房にしたり、アメリカの大地の一角に小さいながらも牧場をもったことなどで、半世紀以上も前の鬱憤を晴らした様な気がしたのである。

兄や妹は温和な性格で皆から好かれたが、私はチョッとクセのある子供だったので取り扱いが難しく両親を手こずらせたらしい。でも貧しいながらも楽しい我が家であった。5人家族で寄り添い助け合ったあの時代はもう二度と帰らない。父も兄ももう彼岸に飛びだってしまった。残るは母と妹の3人だけとなったが、向こう岸の彼らも二人で寂しくはないだろからこちらでもう少し3人で楽しませてくれと頼んでいる。その他小学校時代の想いでといえば、やはり初恋の体験だが、このことについては合縁奇縁の話として別の機会に触れようと思う。

中学時代も優等生であったが卒業間近から少しずつ悪い仲間とつるみ始めた。高校生になって暫くしたら当然の如くタバコや酒で一足早く大人の仲間入りをした。勿論、親や先生の目を盗んでの禁じられた遊びだったが限りなき戦慄を覚えた。時々番長格の生徒の家でやる宴会には50名程の高校生が集まって膳を並べて酒を飲む光景は異様なものがあったが、よくポリさんに捕まらなかったものだと今思えば感心する。仲間の殆どは就職コースであったが私ともう一名進学コースから参加した。その彼は目下一流企業の副社長となっている。どうも枠から少々外れるくらいの人間の方が、大を成すような気がする。

勿論、ワル達と一緒だったから一端に女(同級生)も作った。でも何故かその分野だけは奥手であったので手を握るのが精一杯だった。卒業後何十年後かに再会を果たしたが、その時どうなったかはご想像におまかせしよう。

小学校5年の時、オヤジに急に英語を習えと言われ毎朝ラジオで勉強させられた。そのお陰で中学、高校とも英語の成績だけは常にトップ。(勿論読み書きだけではあったが。)テレビの西部劇の影響も加わり何時かはアメリカへという夢はその当時から膨らんだのである。オヤジに先見の眼があったかどうかは別として、振り返れば彼に頭をこずかれながらラジオを聴いたお陰と感謝に耐えないのである。

幼少の頃の思い出は尽きない。数ページくらいではとても足りない。ただ私は紛れもなく幸せな幼年時代を過ごせたことの幸運さを、齢を重ねる毎に感じるのである。貧しく清く美しく、の日々だった。故郷は山あり海ありの田園であったこと、そしてその牧歌的な雰囲気は多くの童謡や唱歌にぴったりのものであったので、半世紀以上経った今でもその情景を思い浮かべながら、あの頃の歌を自然と口ずさむことが出来る。<ふるさと> <故郷の廃家> <かあさんの歌> <春の小川> <我は海の子> <里の秋> 泉の如く湧き出てくる。

都会で生まれ育っていたら体験出来なかった貴重な思い出が一杯詰まった大きな袋を私は持っている。何物にも代えがたい財産である。