1. TOP
  2. 02)日本での日々
  3. 帰らざる日々

帰らざる日々

アカデミックな分野を除けば、大学時代に学び体験したことは多い。それがまともな学生が取るべき道であったかどうかは別として、考え付く限りのワルサをし、そしてバンカラ学生たるを誇りに思い、腹一杯青春を謳歌した。もう二度とあの時代に戻れないことが解っているだけに、想いを馳せれば馳せるほど懐かしさが込み上げて来る。

私は予行演習で受けた東京六大学のK大に合格したが、入学したのは地方の小さな国立大学でいわゆる駅弁大学と呼ばれた類ではある。二つ上の兄が既に大学生だったので私も通う様になると家計は火の車、必然的に授業料の安い地方の国立大学へ行くのが親孝行と思った結果の選択であった。振り返れば私の決断は正しく、そんな田舎のこじんまりとした環境がその後の人格形成に大いに影響したのである。

一学年180名程の単科大学みたいなものであったから4年もいたら殆どの同級生と顔馴染みとなる。女子学生ゼロ、今でこそ3割前後いるらしいが、当時でも全国的にそんな大学は稀であったらしい。その上、人口6万人前後の小さな地方都市であったから大した娯楽や、若者への刺激など皆無、何もしなければ退屈極まりない田舎町だったのである。従って学生の9割は何らかの運動部に所属し文部両道を目指したのであるが、あまりにも健全過ぎた。と同時に街全体が恐ろしい程学生に寛容であったのも、数々の忘れ難い想い出を作るのには格好の場所だったのである。

Exif_JPEG_PICTURE

 

高校時代も終り近く大学受験の間近かだけは仕方なく一生懸命勉強した記憶があるが、入学した途端酒もタバコも堂々と飲めるようになったしマージャンやらも覚え一気に遊び呆けてしまった。もちろん最初の数回だけは色々な講義に出席したがどれもこれも面白くなく、従って授業以外のところで勉強をする人生道場が大学である、と手前勝手に認識し早々と学生の本分?を諦めた。それ以来、試験の前夜以外は一切本を開いたことがなかったのである。この不勉強さが後々の人生に影響したこともあったが自分で納得して勉強しなかったので、誰を責めることもなく因果応報ということで前へ進んだ。

しかし、ともすればダラケがちな日常生活を引き締めてくれるものがあったからまだ救われた。私はチームプレーで尚且つ格闘技的なスポーツに興味があったから、ラグビー部からの勧誘に難なく首を縦に振った。そしてあの楕円型をしたボールがどちらに跳ね返るか解らない所は人生に似て面白いと言うのももう一つの理由であった。自分の思うように弾めばそれを掴んでゴールへ疾走出来る、逆に思った以外の方向に弾めば、それを素早くリカバリーしなければ敵に乗ぜられることになる。聞けば部員の殆どが未経験者、都会の大きな大学では考えられないことだし、入部さえもさせてくれなかっただろう。

私は少々足が速いこともあり4年間ウイングのポジションでプレーした。二年生の時から正規のメンバーとなり多くの試合に出れたことは幸運でもあったがそれ以上に大事だったのは、例え一つのことでもいいから熱中し4年間続けることが如何に大変かを体験したのは後々大きな自信となった。<継続は力なり> ということはその時に学んだのである。ビジネスの現場では冗談半分でよく話したが、私は結構足が速い、だから逃げ足も速いからあまりババは掴まないんです、と言ってみんなの笑いを誘ったこともしばしばであった。

山城を囲んだ小さな街だったので、チャリンコが全学生の足であった。毎夜の如く飲んで酔っ払い運転をしても事故など可愛いものだった。自分で転んで酔いが覚めるまで寝っ転がっているだけ。高歌放吟し色々な悪さをしようが市民は学生達に寛大であったから、我々は図に乗ってドンドン悪戯をした。今で思えば肝が冷えることの連続であったが、大過なく四年間過ごせたことはミラクルに近かった。学生時代や後に述べる会社時代の悪さの数々は既に時効となっているのでここに明かすが、それ以後更生し少しはましな人間となり当時の罪をつぐなったと思っているから大目にみて欲しい。

入学して住み込んだ下宿には破天荒な10人程のワルな先輩達が待ち構えていた。新入生は私一人、手荒い歓迎を受けたが、この時からすでに大学生活の歯車は狂い始めていた。あらゆる悪いことを教える先輩軍団だったので私にチョイスはなかった。その当時の大学の先輩後輩の序列というのは最高位は天皇、最下位の私は下足番といったところだから、言うことを聞くしかなかった。

城下町であったから酔っ払って堀の中に投げ込んだ自転車の数はおびただしい。極めつけは仲間と一緒になってお堀端に止めてあったフォルクスワーゲンまでも投げ込んだ。20分もチャリンコで走れば農村地帯。ある晩数人で鶏を盗みに行き、捕まえたらギャアギャア泣いたので、ヤバイと思って咄嗟に首をひねったら静かになって命拾いした。鳥肉屋の息子がいたので難なく料理して焼き鳥パーティ。肉違いだったが、酒池肉林もたまにはいいなと思った。

悪さはとどまる所を知らない。ある時は学生食堂の値上げに腹を立て、またまた数人と侵入、ありとあらゆる食材を手に入れてきたから暫くは多くの仲間たちと連夜の宴会を続けた。選挙になるとあちらこちらの選挙事務所へ行ってただ酒ただ飯をたらふく饗応になった。勿論投票日なんか二日酔いで、結局は誰も投票に行くことはなかった。一升ビンを下げ城山に昇り、管理人の言うことも聞かず一列になって高い石垣の上から立ちションをした爽快さは忘れ難い。古のツワモノどももああして天下を取る日を夢見たのかも知れない。

今の学生達のように私達には合コンの経験などない。まして女子大生なきキャンパスでは男の臭い、フンプンである。しかし唯一近くの短大の女学生がやってきて我が校のバレー部と練習することがある。我々ラグビー部の面々はその日はわざと早く練習を切り上げ、そのバレーコートの向こうにあるシャワー室に飛び込む。そして終った後フルチンで女の子の前を全速力で走って帰ってくる。でもそれが出来る豪の部員は少なかったが、それにしても当時は考えられもしなかったストリーカーをやったのである。女の子達はキャアキャア言って大変だった。(吃驚したのか嬉しかったのか真意はわからない。)

最上級生になって体育会の副委員長となった。委員長とは邯鄲相照らす仲となり毎夜飲み歩きあちらこちらで後輩を捉まえては説教した。彼とは終生の友で、会えばいまだに二人ともあのヤンチャな時代に逆戻り痛飲する。彼の他にも多くの同期の友もいる、そしてそれらの友を通じて新たな交際の輪が広がる。その後も多くの友人知人を得たが利害関係がないからこそお互い尊敬し信頼し合える友情を育て上げることが出来たと思っている。そう言った彼らこそ私の人生に於ける掛け替えのない財産ではないだろうか?!

数々の武勇伝もあるが、ここでは苦い体験を語ってこの項を閉じたい。四年生最後の大事な必須科目の試験に、あろうことか寝過ごし30分程遅れていったが入場させてくれなかった。私ともう一人遅れていったアホ?もいたが規則は規則、私はそれが為卒業出来ず自動的に留年となるはずだった。しかし私の多くの仲間やゼミの先生を含めた若手教授陣が一体となって、再試験を受けさせる機会を与えろと立ち上がってくれた。前途有為ある青年の人生を僅か15分の遅れで一年間無駄にしてしまうのか、と。学部長はじめ既存勢力の長老教授陣は規則は曲げずと頑として引かなかったので、何日も団交が続いた。

私は、みんなに、「俺の為にもう十分戦ってくれた、ありがとうもういいよ。」 と懇願したが彼らは戦い続けた。そしてとうとう教授会の最終採決で、再試験を受けさせることでの決着がついた。爾来、大学では理不尽と思われる規則はその都度改定や修正を加えていったらしい。(いまだに当時のゼミの教授とは交流があり会うと、君のことであの当時は私も苦労したよ、といつもその話を持ち出してくるのでその時は神妙な顔をして聞くことにしている。)同期の連中の卒業年月日は3月の16日になっているが私は3月31日、そうすることで長老達は少しばかりの矜持を得たかったのかも知れない。そして卒業アルバムを見ると私の顔写真は全卒業生の最後に出て来るのである。忘られない青春の苦い勲章であるが、モノは考え様、真打登場と思えば未来は明るかった。